香取 淳の本棚

 
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密やかな連夢


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ハードカバー、300ページで初出版
■この本は日本図書館協会の『選定図書』に選定され、全国の幾つもの図書館で
購入されました(残念ながら図書館協会の図書選定事業は2015年度をもって終了)。
■内容・評価など
 私が26歳から27歳にかけて体験した不思議な精神体験を、フィクションを織り交ぜながら描きました。 予知夢に誘われて進行する出来ごとに畏怖の念を抱きながら生きていくうちに、思いがけないフィナーレにたどり着いたのです。舞台となった土地や、 登場人物が多くて読みにくいとは思いますが、私にとって「生きているうちに書かなければ……」と思った作です。
・この小説では、沢山の読者に書評や感想を頂きました。そのなかで一番気に入っている書評は「初めは官能小説、次いで純愛小説、おわりは哲学ですね」と云うものです。

・著者は、人間の自我について三つの段階があると考えています。それは「動物的自我」、「人間的自我」そして「超人間的自我」ですが、 そのステップに立ち向かい、果敢に挑んでいくプロセスを自己体験にもとづいて書き上げたつもりです。
 なお、「超人間的自我」については、そのような心のあり方があることを知り、実感できればいいのであって、そこに長くとどまることはむずかしいし、 長くとどまろうとすれば問題を起こすことが多いように思います。  
香取 淳へのメッセージはこちらまで


密やかな連夢(1〜12章)
   第一章

  ―1971年春―
 乳白色のキャンバスが暗闇にぼんやり浮き上がっている。その大きな横長の画面に淡いモノクロームの縦縞が描かれていた。左の上隅に黒い物影が現れて、渦を巻くようにうごめいた。誰かが部屋の中を覗いている気配である。拓は首を捩じって訝しげにキャンバスを見上げた。すると物影はチリッと閃光を放ち、キャンバスから抜け出して拓に飛びついてきた。
 拓の目の前に見知らぬ老人がいた。ベッドに仰臥していた拓に馬乗りになったその老人には重みが感じられない。長く伸びた白髪や白い揉み上げは後ろに反り、顔もまた白い髭で覆われている。その髪や髭が薄明かりを後光にして銀色にピカピカ光っている。拓は驚く余裕もないままに老人を見上げた。
深く落ち窪んだ目は穏やかで澄んだ光を湛えている。威厳に満ちた老人の顔を見上げていると抱いていた恐怖感は消えて、むしろ優しささえ感じ取れた。老人は大切なことを話しかけるように拓の胸にそっと両手を掛けた。左右の乳首に置かれた老人の指先がとても快い。舌先でバターが融けるような感触が胸一杯に膨らんでくる。拓は我を忘れて老人に身を任せていた。やがて快感は胸から上半身に広がり止めどもなく高まってくる。
全身が痺れて弓なりに反り返えった。それでもなお老人の指は鋭い刃物のように拓を突き刺している。何時の間にか快感は耐えがたい苦痛に変わった。拓は呼吸をすることもできない。余りの苦しさに老人から逃れようと必死でもがいた。しかし、老人はぴたりと拓に覆いかぶさりベッドに押さえつけている。拓は渾身の力を振り絞って老人を撥ねのけたが、弾みでベッドから転げ落ちた。しかし、それでも老人は執拗に絡みついている。コンクリートの床に組み伏せられた体は石のように硬くなっていく。

 拓はラブホテルのベッドで一人仰向けに横たわっていた。時は夜明けで部屋の中はまだ薄暗い。ベッドの左手にあるサッシの窓が夜明けのやわらかい光でキャンバスのように浮き上がっている。その窓に掛けられたレースのカーテンが淡いモノクロームの縦縞を織りなしている。不思議な老人がいないほかには何ひとつ情景は変わっていなかった。拓は今までに経験をしたこともない快感と苦痛が過ぎっていった胸にそっと触れてみた。するとそこには汗、胸の窪みに溜まるほどひどい汗が噴きだしている。彼が胸全体を撫ぜまわすと生温かい汗が手のひらにべっとりへばり付いた。その不快な感触で彼はいま過ぎ去った情景が現実ではなくて夢であったことを感じ取った。
彼は少し安堵して濡れた手を浴衣の腹辺りに擦りつけ、さらに左右の襟を一緒に握って胸や首筋を手荒く拭った。喉仏の下にチクッと痛みが走った。浴衣の襟を目の前に引き上げてみると一ヶ所が血で赤く滲んでいる。昨夜風呂上りに気付いた吹き出物、赤く腫れた先に小さな膿を孕んでいたそれを潰してしまったようである。
――あの老人は誰だろう?
 喉仏の下でぬるぬるする吹き出物を人差し指の先で触りながら考えた。昨夜綾子が話していた彼女の父であろうか? いや、彼女の父は今でも壮健だと綾子から聞いている。だとすれば僕の父? しかし、数年前に脳出血で急逝した父の髪は薄かったし白髪でもなかった・・・。
 彼は冷静さを取り戻しながら夢に現れた老人が誰であるかを詮索する。しかし、幾ら考えても今までに出遭ったことのない相手であることは確かであった。
サッシの窓が眩しくなってきた。拓は寝足りない目を閉じて両手を左右に拡げる。ダブルベッドの広さは心地よいが一人だけでは落ち着かない。彼は汗が乾いた肩や首筋に寒気を感じて薄手の上掛けを顎の下まで手繰り寄せた。

 酒廊バッカスのママ綾子から電話があったのは三月末の土曜日であった。拓は週末に横手にある城戸旅館から逃げ出すように車を走らせて秋田市にあるあさひ館に移動した。そのあさひ館で遅い夕食を済ませてガラス張りの帳場で若女将と話しているところにベルが鳴った。
「和田さん、電話よ。若い女性から」
 帳場で電話を取り次いでいた若女将が上目遣いに言った。拓は小柄な若女将の視線を気にしながらカウンターの受話器を取った。
「もしもし、和田です。あ、ママ・・・。今夜は別に何も無いけど・・・。じゃあ、後で」
 拓は素っ気なく応じてクリーム色の受話器を置いた。
「ねえねえ、何?」
「え、行きつけの店でね、お客が少なくて困るから来て欲しいって」
「そうかしら? お客さんが少ないなんて口実に決まってるわよ。和田君は若いし、もてていいわね」
拓は嫉妬を含んだ声で言う若女将に背を向けて帳場のガラス戸を後手に閉めた。若女将は色白の愛らしい顔立ちで二十歳代の若さに見える。拓が新しい宿を探しに此処を訪ねたとき年取った女将と並んで応対に出た彼女を独身だと勘違いした。しかし、定宿に決めて荷物を運び込んだとき若女将には小学六年生の娘を筆頭に三人もの子供がいることが判って失望したことを今でも覚えている。
帳場を出ると右手に長い廊下が奥に伸びて、左手に四坪ほどの三和土と隣り合ったロビーがある。紅い絨毯を敷き詰めたそのロビーには大型の石油ストーブが置かれていて今夜も青白い火が灯されている。暖かい熱が放散してくるストーブの脇を通り抜けて、駐車場に出られるガラス戸の前で折り返して狭い階段を昇った。二階にも長い廊下が伸びて、右手に広めの十畳や八畳間が、左手に狭い六畳間や四畳半が並んでいた。もともとあさひ館はアパートであったが何年か前に旅館に改築したと若女将から聞いたことがある。スポーツの振興に熱心であった宿の主人が競技会がある度に宿舎を探す煩わしさに悩まされて旅館への切換えを決断した由である。
拓は階段の真上にある四畳半に入った。その部屋は一昨年まで拓が専用に使っていた部屋で、襖を隔てて奥に三畳間がついている。その三畳間にかつては製剤見本やパンフレットなどの宣伝資材を山積みにしていたが、今はきれいに片付けられて何もない。しかし、拓は下宿をするように暮らしたその二間続きの部屋に愛着を感じていた。
部屋に敷かれている布団に寝転がってハイライトに火を点けた。そして、電話を掛けてきた綾子のことを考える。彼女の店はあさひ館から歩いて十分程の盛り場にあった。彼女との出会いは四年前で、拓がこの町に着任したときの歓迎会の二次会で先輩MRに連れられて入った。それ以来、月に一度くらいバッカスに通うようになったが、美しくて気品のあるママに眩しいような感情を抱いていた。その綾子から初めて電話が掛かってきた。拓は心が浮き立った。しかし、飲みに行くにはまだ時間が早過ぎるし、電話の直後に駆けつけては沽券に関わるような気もする。しばらく時をおいてからと考えたが煙草を吹かすほかには何も手につかない。彼は煙草をもみ消してセーターに着替える。風呂上がりの髪に油を塗ってドライヤーとブラシで丁寧に整えた。そして、白いジャケットに腕を通して狭い部屋を出た。階段を降りて帳場の前まで来ると若女将が交換台の椅子に正座をして受話器を握っていた。彼女はガラス越しに拓を睨んでにこりと笑った。拓はその若女将に手を挙げて照れ臭さを誤魔化しながら靴を履いた。
玄関を出ると細い路地を挟んで住宅が密集している。拓は街灯がまばらな暗い路地を通り抜けて、角のガソリンスタンドを左に曲がった。広い通りの左右に縄暖簾の赤提灯やスナックのネオンがぽつりぽつりと光っている。十分ほど歩くと人通りの多い交差点が見えてきた。X字に変形したその交差点を渡って突き当たった歩道を数メートル右に行くと石橋の袂に出る。石橋の下は深く抉れていて右岸に伸びた通りに割烹やホテルが立ち、対岸の暗い石垣の上には歓楽街の裏明かりが漏れていた。短い橋を渡ると右手に煌びやかなネオンが点滅している。通称川反(かわばた)と呼ばれるその歓楽街に入って四、五軒先にある二階建の階段を昇った。暗い通路に数軒のバーやスナックの看板が光っている。
左手にあるバッカスのドアを押すと騒々しい酔客やホステスの声が外に溢れ出した。薄暗いフロアにある数個のボックス席は客で埋まっている。あさひ館の若女将が言い当てたように客が少なくて困っているというのは嘘であった。拓は少し不機嫌になってツカツカと奥に進み、客のいないカウンター席の隅に腰を掛けた。半円形のカウンターの中でメロンを切っている女に棘のある声でビールを注文する。女は浅黒い顔を上げてビールを冷蔵庫から取り出してカウンターに置く。そのビールを手酌で二、三杯飲んだとき背後に綾子の声がした。
「有難う、やっぱり来てくれたわね」
 綾子は肩で息をするように言いながら隣に掛けて酌をした。
「私から呼び出したのに、お相手もできなくて御免なさい」
「僕のことだったら気にしなくてもいいよ。それにしても随分繁盛しているじゃない」
「そうなの、さっき和田さんに電話をした後に急に一杯になったの」
 小太りの酔客が立ち上がって大声で綾子を呼んでいる。
「お店が終わるまで待っていてね、お願いだから」
 立ち上がった彼女は彼の肩を両手で包んで耳元で囁いた。その言葉に拓は背中ごと頷いて、グラスの縁を舐めるようにビールを飲んだ。数人ほど座れるカウンター席に客はなく、目の前の女は全く無口であった。フルーツの盛り合わせをこしらえた女はガスコンロでスルメを焼き始めた。香ばしい匂いが周りに充満してくる。女が焼きあがったスルメを手際よく割いて皿に盛り付けている。フロアから二十歳前後の細身のホステスがやってきた。彼女は義理程度に酌をして出来上がったスルメの皿をボックス席に運んで行く。拓はビールで腹が膨れたので目の前にいる女に水割りを頼んだ。女は黙ったまま水割りをカウンターに差し出す。彼もまた無言で目の前に置かれた薄茶色のグラスに口をつけた。しかし、それでも気分は決して悪くはなかった。憧れていたバッカスのママ、恐らく拓より三、四歳年上の彼女が閉店まで待っていてくれと言う。
拓は心を昂ぶらせてボックス席の綾子を眺めていた。彼女は優しさと気品とを兼ね備えた顔立ちで着付けもセンスがいい。とくに今夜は明るいピンクの和服を着こなして背筋をピンと伸ばした胸がふくよかである。その彼女に酔客が擦り寄って盛んに口説いている。それを艶やかな笑顔であしらいながら隣の席に移って行く。彼女と入れ替わりに若いホステスが落胆気味の客を懸命にとりなしている。彼はその客たちに「綾子が今夜付き合いたいのはこの僕なのだ」と言いたい衝動を抑えながら優越感に浸っていた。やがて奥にいた客たちが席を立ち、次いで真ん中の席にいた二人が店を出ていく。彼らについていたホステスと綾子が見送りに出て、すぐに店に戻ってくる。最後まで残っていた三人が騒々しく喚きながら立ち上がった。足元が危うい酔客たちの背を押すようにして綾子は三人のホステスと共にドアの向こうに姿を消した。
「ああ、くたびれた。今夜は本当に嫌らしい客ばっかり」
 店に残った一人のホステスが泳ぐような足取りで寄ってきてカウンターの向こう端で両腕を前に投げ出した。客の見送りから戻ってきた綾子が背筋をつんと伸ばした姿勢を崩さずに隣に座った。その脇に二十歳前後のホステスが赤いミニスカートの尻を突き出すように掛けて尖らせた口から煙草の煙をふーっと吹かした。調理場の片づけを済ませてカウンターから出ようとした中年女が綾子に呼び止められた。彼女は仏頂顔をして冷蔵庫からビールを二本取り出す。綾子はそのビールを彼に注いでからホステスたちに注いでいく。拓は手酌をしようとする綾子から茶色の瓶を取り上げて彼女のグラスに注いだ。ライトアップしたフロアではコートを着たホステスたちが小物をハンドバッグにしまい、カウンター係の女と共に出て行った。彼女たちが去ると店内は急に静かになった。
「ねえ和田さん、場所を変えて飲みなおさない?」
「ああ、いいよ。僕はもう三時間も此処に座っているんだから」
「御免ね、土曜日はこんなこと滅多にないのよ。ところで和田さん、この娘たちも一緒に連れて行っていいかしら?」
「ああ、大勢の方が賑やかでいいよ」
 拓の言葉に二人のホステスは歓声をあげて奥のロッカールームに飛び込んだ。綾子もカウンターのグラスを片付けて和服の上に薄手のコートを羽織ってきた。

  翌日の午後、拓は駅前の喫茶店で綾子を待った。約束は午後二時であったが昼まで寝過ごした彼は慌てて駆けつけた。パチンコ店やスーパーマーケットの裏通りにある店で、薄暗いフロアに低いテーブルが二十卓くらい並んでいる。客は少なくて二組の若いペアがシートで向き合っているだけであった。彼は突き当りのテーブルに着いて入口のドアを注視した。しかし、身体がまだ目覚めていないのかすぐに瞼が下がりそうになる。立て続けに煙草を吸ったが気だるさは一向に消えない。彼が冷めかけたコーヒーに口をつけたとき黒紫色のドアが開いた。店内に差し込む光の束を背負うように黒いジャケットとスラックスにサングラスを掛けた女が入ってきた。髪は手入れがいき届いていないようで、ほつれ毛が目立つ。女は店内を一瞥して彼のテーブルにツカツカと近づいてくる。そして彼の向かいにゆっくり座ってサングラスを外した。
「遅れてしまったわね、待った?」
 聞き慣れていた綾子の声にホッとして答える。
「大したことはないよ、十分位かな」
 そう言いながらも彼は狼狽を隠せなかった。目の前にいる女は昨夜の眩しかった綾子とは別人のようにくたびれている。顔色がひどく悪い上に化粧かぶれで皮膚が海老のように強張っていた。さらに、頬にはひび割れた長い皺が幾筋も走っている。彼女の顔から目を背けて、カップに残ったコーヒーを飲み干した。
「私、紅茶とミックスサンドにしようかな。和田さんは?」
「うん、僕も同じものを」
 綾子は近くにいたウエイトレスにオーダーを伝えてハンドバックからシガレットケースを取り出した。そして、咥えた煙草に火を点けて煙をふっと吐き出した。拓もハイライトを取り出して火を点ける。口の中が荒れていて煙を吸い込むときに痛みを感じる。それでも何本かを立て続けに吸いながらテーブルに届いたサンドイッチを喉に詰め込み、味のしない紅茶を啜った。綾子が口紅で汚れたカップを皿に置くのを見計らい拓は無言で立ち上がった。綾子もハンドバックから取り出したサングラスを用心深く掛けて後に従った。外に出ると暗がりに慣れた目に午後の日差しが眩しい。彼は向かいにある駐車場で料金を支払って隅に停めた車に乗り込んだ。そして、左手を伸ばして助手席のロックを開ける。綾子が素早く乗ってドアを閉めた。
「何処に行く?」
「何処でも、和田さんの好きな所でいいわ」
 無気力な問いかけに綾子の返事も張りがなかった。彼は細い路地から通りに出ると、千秋公園の濠の脇を走って突き当たりの川沿いを左、右と鉤の手に曲がって橋を渡った。街を南北に分ける大通りを西に向かい、碁盤の目のようになった交差点を幾つか通り過ぎた。県庁の手前にある信号を左折して国道七号線を南に進んで行く。長い橋を渡り終えると道端のビルや建物が疎らになって荒涼とした丘陵が見えてきた。枯れ草に覆われた丘陵が低くなり、その先に寒々とした海が見えた。灰色の海面に荒々しい白波が打ち寄せている。道の左右に松の木立が現れた。青黒い葉をつけた枝がみな陸の方になびいている。それは海から吹きつける季節風の凄まじさを物語っていて、今日の穏やかな日和でさえ時折ハンドルが取られる。海に沿って緩やかに蛇行する道が延々と続き、背後のカーステレオからテンポの遅い曲が流れてくる。
拓はハンドルの下端に軽く手を置きながらアクセルを踏み続けた。毎日相手の顔色を窺いながら仕事をしているので話すことが億劫に感じられる。綾子も接客にくたびれているのか、自ら話そうとはしなかった。途中で海沿いの小さな市や町の中を通り抜け、一時間半ほど経ったときやっと重い口を開いた。
「この先に見晴らしのいい岬があるんだけど」
「私の家は秋田よりずっと北の方だから、こっちには一度も来たことがないの」
 綾子は眠気がさしていたとみえて幼児のように舌足らずに答えた。
「それじゃ、行こうか」
 国道は大きく湾曲して深い松林の海寄りの肩を割くように伸びていた。その登り坂の頂上近くで右手に降りる小道に車を進める。中途半端に砂利を敷き詰めた道は走りにくくて車は左右に激しく揺れた。二、三百メートル走ると突き当たりは平たい窪地になって、周囲を高さが数メートルもある巨岩が取り囲んでいた。展望台はそこから五、六十メートル先にある。
「どうする、降りて歩く?」
「風が強いし、寒そうね」
「どうしよう、もどろうか?」
 リクライニングシートで綾子が小さく頷いた。
目を閉じて顎を軽く上げている彼女は何かを待ち望んでいる様子である。しかし、彼は何も出来ずにただ彼女の横顔を眺めていた。不思議なくらいに冷静で異性に対する感情や衝動も一切起こらない。彼は正面を向き直りアクセルを踏み込んだ。狭い平地で二、三度ターンをして、砂利道を引き返す。アスファルトの国道に戻り先ほど上って来たなだらかな坂を降りていく。海辺の平たい道に差し掛かると松の枝が来た時とは逆の方向になびいている。
 拓はハンドルを握りながら次第に焦りに近い気分に襲われた。綾子とこのまま何事もなく別れたとしたら余りにも不自然に思える。きっと、彼女は不愉快な感情を抱くに違いない、何としても男と女の関係を結ばなければいけない。そう自分に言い聞かせながら運転を続けていた。松林が途切れて前方に茶色く尖ったモーテルの屋根が見えてきた。しかし、彼はウインカーに手を伸ばしてレバーを上げることが出来ない。すぐに次のモーテルが見えてくるがやはり行動は起こせない。灰色の海に陽が沈んで松の木立も疎らになってきた。黄昏が迫って前方に淡く町明かりが見え始めた。その明かりが丘陵の陰に隠れて国道は内陸側に大きく曲がっていく。右手に一際派手なネオンサインが見えてきた。彼は意を決してハンドルを切り、タイヤを軋ませながらモーテルに入っていく。
 
 拓と綾子はベッドで絡み合い単純な動作を繰り返していた。シーツに触れている膝や肘が痛くなるとそれまでの体位を変えて再び単調な動作を続ける。他のことは一切考えずに集中しているが、およそ快感らしいものは何もない。ただ、己の性器が勝手に勃起して延々と一人歩きをしている感じであるが、その行為が不愉快だとか詰まらないという訳でもなかった。
彼は厳かな儀式を執り行う時に似た緊張感の中で行為を続けていた。恐らくモーテルに入る前の焦りや恐怖感、それに羞恥心がない交ぜになってこのような状況に陥ってしまったに違いない。あたかも己の分身が没頭している性交を天井から鳥瞰しているかのように肉体と心が乖離していた。そして、綾子もまた目を固く閉じたまま果てしなく続く行為に身を任せている。
 拓が果てたのはそれからどれくらい経ってからであろうか。一時間後かそれとも二時間後か、定かではなかった。しかし、永遠にセックスを続けている訳にもいかないと彼は全神経を集中して単純な動作に渾身の力を込めた。拓がやっとの思いで果てたとき全身の汗腺が堰を切ったように汗が噴き出した。その汗は彼の下にいる綾子の肌をも濡らして、二人はプールから上がってきた後のようである。やがて、荒い呼吸が静まり汗も徐々に収まってきた。拓は綾子から離れて、もぬけの殻のようにべッドに横たわっていた。
             「和田さん凄い、貴方だったら一度に二人でも三人でも女性を満足させられるわ」
 天井を向いていた綾子が身体の向きを変えながら拓に言った。耳元で囁く彼女の声が拓にはひどく遠くからに聞こえる。そして、いまやり終えた行為を、これまでに経験したことがないほど辛くて苦しいことのように感じた。

  それから半月ほど経った日曜日の夕方、拓は綾子の住むアパート近くの路上に車を停めて彼女を待った。今にも降りだしそうな曇り空で吹く風も冷たいせいか人通りは殆どない。数分してシックな茶系のワンピースに薄手のコートを羽織った綾子が木造二階建の端にある階段を降りてきた。拓はアクセルを踏んで車をゆっくり発進させて歩道を歩きはじめた彼女のすぐ脇に止めた。車に気づいた綾子は強い嫌悪を眉間に浮かべながら素早く乗ってドアを閉めた。
「約束はずっと先の角だったでしょ、駄目よこんなに近くに来ては」
「だって今日は風が強くて寒いし、それに僕たちは何も悪いことをしているわけじゃないもの」
「それはそうかも知れないけど、やっぱり知ってる人に見られるのは嫌だわ」
「ごめん、ごめん。今度から気をつけるよ」 
拓はハンドルを握りながら口を尖らせる綾子に素直に謝った。街を二分する大通りに出た小型車は県庁の手前にある交差点に差し掛かった。彼は右折車線に入って北の方に車を進めた。郵便局やガソリンスタンドを通り過ぎて運転免許の教習所の前にきた。MRになって間もない頃に、此処に通ったことを思い出す。綾子にその話をしているうちに道端の建物も疎らになってきた。貨物港が近づくと周囲は少し賑やかになったが再び淋しい田畑や原野に差し掛かる。辺りはだんだん暗くなってきた。二人は前の晩に綾子の故郷に近い男鹿温泉に行く約束をした。しかし、それは酔った弾みの話で、実際の段になると簡単なことではない。
「順調に走ってもまだ一時間以上かかるから男鹿に着くのは七時を過ぎるね、それから宿探しとなると大変だな」
「そうね、ちょっと無理かもね」
「明日は仕事もあるし、温泉は次にしようか」 同じ心配をしていた綾子も同意して彼らは引き返すことにした。夜の帳が外の景色をかき消して、家明かりも殆ど見えない。その暗い国道で拓は小型車をUターンさせて再び町中に戻ってきた。港の近くを通り過ぎてバイパスに差し掛かると両側にカーディーラーの店や倉庫が建ち並んでいる。明かりの消えた建物の先にぽつんと光る緑のネオンサインが見えてきた。拓はそのモーテルが隣に立つ料亭の経営だと誰かに聞いたことがある。周囲に人の住む家はないうえに歩道にも人影はなかった。彼は気兼ねなく車の速度を落としてモーテルと料亭に挟まれた空き地に入っていく。
庭園風の敷地に一戸建が数軒並んでいた。左にある料亭と棟続きになったプレハブの小窓で泊まり代よりも多い金を預けて部屋の鍵を受け取る。そして、車のトランクを開けて黒いバッグとギターケースを取り出して綾子を待った。しかし、彼女は人に顔を見られたくないのか拓に催促されるまで暗い車内でじっとしていた。
綾子を伴って彼はバイパス側にある一戸建に向かった。玉砂利を敷きつめた地面にもネオンが埋め込まれていて足元が緑色に光っている。
粗末な建物のドアを開けて部屋の明かりを点ける。綾子も肩をすぼめて入ってきた。彼女はハンドバックをソファーに置いてその脇に浅く腰を掛けた。小さなテーブルに色あせたメニューが載っている。拓はビニールカバーに挟まれたそれを手に取って好きな料理を綾子に尋ねた。二人は天麩羅や刺し身の盛り合わせに茶碗蒸と吸い物などの数品を選んでフロントに電話を入れた。
拓はギターを取り出してチューニングを始め、手早く音を合わせると指慣らしに禁じられた遊びや鉄道員のテーマを演奏する。綾子は思いがけない拓の趣味に驚いた顔をしながら耳を傾けていた。さらにケースから楽譜を取り出して演歌やポピュラーを弾き語りで歌ってみた。しかし、暗くて惨めな感じだけが狭い部屋に広がる。彼は楽譜を取替えて月の砂漠や浜辺の歌などの古い唱歌に曲目を変えた。それらの曲には綾子も乗ってきて、二人は何曲かを一緒に歌った。数曲を歌い終えたときドアがノックされてエプロン姿の仲居が入って来た。彼女は細長い木箱から料理を取り出して狭いテーブルに隙間なく並べていく。その仲居は食事が済んだら電話を下さいと言い残して出て部屋を行った。綾子が冷蔵庫からビールを取り出して栓を抜く。そのビールを互いのグラスに注ぎ合って二人は乾杯の仕種をした。
「こんな風に食事をするのは久しぶりだわ」
「と言うことは、毎日自炊?」
「そう、カレーやスープなんかを沢山作っておいてね、食事の度に温めて食べるのよ」
「へえ、意外だな。綾子は毎日贅沢な食事をしているとばっかり思ってた」
「お店では見栄を張ってるけど、質素なものよ」
 二人は料理を肴に冷蔵庫にあった数本のビールを全部飲み干した。やがて、電話で呼ばれた先程の仲居が手早く食器を片づけて部屋を出ていく。それを見届けた綾子がドアに鍵を掛けながら声を掛けた。
「お風呂の用意をしてくるわ」
 彼女が部屋の奥にあるバスルームのドアを開けた。すぐに勢いよく湯の弾ける音が聞こえる。拓は少し固めのソファーに深々と腰を掛けてハイライトに火を点けた。食後の一服は格別でゆっくりと吐き出した煙が円い輪になって雲のように浮いている。その形のよい煙がバスルームから出てきた綾子にかき乱された。
「僕は綾子さんについて不思議に思うことがあるんだけど」
「え、私?」
「うん、綾子さんを見ているとね、とても育ちのいいお嬢さんに見えるんだけど、どうして水商売をしているのかなって?」
 彼女は拓の顔を見つめ、ソファーに腰を下ろした。
「私ね、前は大きな会社で電話の交換手をしていたんだけど、そこでね、上役の人と恋をしたの。その人とは結婚を考えていて、彼は私の家に来て両親にも会ったのよ。だから周囲の人たちに少しずつ彼のことを話していたんだけど、あるとき彼が妻子持ちだって判ったの」
「フーン」
「その人が結婚していたなんて、私、全然気づかなくってショックだったわ。その後も彼は奥さんと離婚して私と一緒になるって言い張ったわ。でもその人には子供が三人もいたのよ。いくら離婚って言ったって無理な話なの」
「うん、そうかも」
「そのうちに二人の関係が会社中にばれてしまって彼は札幌に転勤、そして私はクビ…。どうして女の私だけがクビにならなくちゃいけないの」
「理不尽だね」
「私、悲しくて悔しくて実家に帰って毎日泣いて暮らしたわ。そんな日が二、三ケ月も続いて遂に父が怒りだしたの。毎日泣いてばかりいるのを見ているのは耐えられないから出ていけって」
「フーム」
「それで私は友達のアパートに転がり込んで毎日酒を浴びるように飲んで暮らしたわ。その友達が夜はアルバイトでホステスをしていてね、私が落ち着いてきた頃に一緒にお店に出ないって誘われて、それでこの世界に入ったわけ」
「そう、大変だったんだ。それでご両親は今でも健在?」
「母は三年前に亡くなったけど父は元気よ。私が人並みに結婚するまでは死ぬにも死ねない、なんて言ってる。でも私は親孝行よね、こうしていれば父は何時までも生きていてくれるって思うもの」
「それはひどいよ。僕なんかもう両方ともいないから出来ないけど、親のいる人はせいぜい大事にしなくちゃ」
「あ、もうお風呂一杯になってしまうわね。止めてくるわ」
 拓はやはりそれなりの訳があったのだと軽い衝撃を覚えながら煙草に手を伸ばした。
「…あのね、その人が転勤でまたこの町に戻ってきたの。一ヶ月ほど前に親戚だと名乗る男がアパートにやって来て、何日か前に彼が外泊したんだけど、私のアパートじゃないかって言うの。私、絶対にそんなことないって答えたわ。あんな男、もう二度と会うものですか!」
彼女は震える声で吐き捨てるように言った。その声や表情から、かつて上司であった男を今でも忘れきれないでいる綾子を感じた。そして、三月の末に突然拓を誘ってきた理由が分かったような気がした。
「ご免なさい、嫌な話をしてしまったわね。和田さん一緒にお風呂入ろう」
 彼女に促されてバスルームのドアを開ける。湯気で覆われたバスタブには湯が溢れるほど溜まっていた。その湯をこぼさないように足からそっと入れて体を沈める。すぐにドアが開いて綾子が身を寄せるように入ってきた。湯がどっと溢れて洗い場に音をたてて流れた。額が汗ばんできた拓は湯から上がって身体を洗う。石鹸の泡が全身に行き渡って、手にしたタオルの動きが滑らかになった。
「背中流してあげる」
 拓は目を瞑ったまま両手を膝に置いて、なすがままに身を任せた。
 綾子は湯から上がってバスタオルの上端を胸元でキリッと締めて鏡台の前に座った。ハンドバックから取り出したクリームを人指し指にたっぷりと掬ってベッドの端に掛けている拓に言う。
「これつけてみて。気持ちがいいわよ」
 拓はクリームを掌に受けて湯上がりで引きつっている頬に塗りつけた。そして、顔全体に伸ばしながら目の前にいる綾子を見た。彼女の白い肌はきめが細かくて均整のとれた肢体は眩しいほどに美しい。しかし鏡に写った顔は別人のように荒れていて、赤黒い斑点が幾つも浮き上がっている。思わず目を背けたくなるその顔に彼女は丹念にクリームを擦り込んでいた。
 肌の手入れに余念がなかった綾子は化粧道具をハンドバッグに収めて、ベッドに入ってきた。二人は何も身に纏わない姿のまま互いを気遣い慈しむように抱き合った。最初の時は荒々しかった行為も今はしっとりとした潤いに包まれている。そして二人が存分に満ち足りた後も互いに身体を寄せあって長い間ベッドに横たわっていた。拓は全身から力が抜けて眠気に襲われていた。その眠気を吹き飛ばすように綾子が突然起き上がった。
「私、もう一度お風呂浴びてくる」
 ベッドの脇にあるスリッパを履いた彼女はバスルームのドアを音をたてて閉めた。すぐにシャワーの音が聞こえてきた。その単調な音を聞きながら拓は再び眠気に襲われた。数分で浴室を出た彼女はバスタオルで濡れた身体を拭い、鏡台の前でソファーに畳んでいた下着をつけ始めた。ブラジャーを着け、ストッキングを履いている。
「今夜は泊まっていくんじゃないの?」
「ええ、明日お店の模様替えがあるの。朝早くから大工さんが来るから今夜のうちに帰っていたほうが都合がいいのよ」
 話している間も手を休めない綾子を見て拓は頭から冷水を浴びせられた気分になった。身支度を終えた彼女は枕元の受話器を取り上げて歯切れのいい口調でタクシーを呼んでいる。気落ちした表情を隠さずに見上げる彼を見て彼女が言う。
「そんなに悲しい顔をしないで」
 外に車が近づいてくる気配がしてクラクションが小さく二度鳴った。コートに腕を通した綾子は腰をかがめて拓の鼻先を人指し指で軽く突ついて部屋を出て行く。一人取り残された拓はひどく寝心地が悪かった。上を向いたり横になったり何度も何度も寝返りを打った。そしてベッドの真ん中に綾子が残していったシーツの汚れから出来るだけ身体を離して眠りについた。

 枕元で電話がけたたましく鳴っている。
「お客さん、十時ですよ。チェックアウトですが、延長しますか?」
「え、もう十時。すぐに、すぐに出ます」
 拓は夜明けに見た老人の夢でしばらく目醒めていたがまた深く眠り込んでしまったようである。洗顔や身繕いもそこそこに建物から出て小型車のトランクに黒い鞄やギターを詰め込む。そして小さな窓口で昨夜前払いした泊まり代に少し追加をしてモーテルを出た。バイパスの左右には卸の事務所や倉庫が建ち並び、週初めの仕事に繰り出した車で渋滞している。
拓は追い立てられるような気分のまま途切れなく煙草に火を点けて苦い煙を吐き出した。県庁近くの交差点、さらに銀行や小学校の前を通り過ぎると大きな三叉路に差し掛かる。そこを左に折れて国道十三号線に入ると車の数が減って道端の建物も疎らになった。根雪が融けて真っ黒な土が剥き出しになった田畑が見渡す限り続いている。土の匂いが車内に漂ってくるような穏やかな景色でようやく追い立てられるような気分が薄れてきた。
車は平坦な田畑の突き当りを右に湾曲して、山に差し掛かる緩やかな坂を上って行く。短いトンネルを潜り抜けると右手にドライブインが見えてきた。彼はウインカーを点滅させてその店の駐車場に車を停める。そこは見晴らしのいい高台で今走ってきた秋田の町を一望することができた。彼は小型車のドアをロックして灰色の芝生に降り立った。四月ももう半ばだというのに北国の風は冷たい。
彼は寝起きで腫れぼったい顔をその風に当てながら薄靄が棚引いている市街を見下ろした。遠く霞む家並のいずれかの屋根の下で綾子はきっと荒らくれた大工たちを相手に工事の指図をしているに違いない。酒廊バッカスでママをしている彼女は何時も凛々しくて眩しい程に輝いて見えた。しかし、彼女の派手な衣装や化粧の下にはごく普通の、いや普通どころか人生に躓いて日々を喘ぎながら生きる惨めな女が住んでいた。拓は憧れに似た感情を抱いてきた年上の女、金銭的にも豊かで性の欲望を満たす相手としてこれ以上は望めないと思っていた綾子が急速に色褪せて萎んでいくのを感じた。そして、彼女と再びベッドを共にすることはもう二度とないであろうと心底から思った。
<以下、第2章>
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