香取 淳の本棚

 
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仙台文学など



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小説、随筆、詩などを発表した雑誌
発表作
【小説】
♣「九郎」 仙台文学38号(昭和62年 4月)
  宮城県芸術協会文芸賞受賞 ⇒ 1987宮城県文芸年鑑に一部転載
♣「霧氷」 仙台文学39号(昭和62年12月)
♣「精霊流し」 仙台文学41号(平成 1年 5月)ここをクリック
⇒ 1989宮城県文芸年鑑に転載

♣「哉助」 仙台文学43号(平成 2年 8月)
♣「母の墓」 仙台文学48号(平成 6年 2月)ここをクリック
♣「若い君に」 仙台文学58号(平成11年 7月)〜63号(平成14年 7月)に連載。
後に「密やかな連夢」と改題して西田書店より出版
♣「まなざし」 風 第5号(平成20年12月)ここをクリック

【随筆】
♠「詩と左右の脳」 詩と思想1991 APRIL ここをクリック
♠「工藤幸一さんと仙台文学のこと」 仙台文学68号(平成 17年 10月)

【詩】
♦「鮮やかな切り口」 詩と思想1992 AUGUST ここをクリック

香取 淳へのメッセージはこちらまで


     工藤幸一さんと仙台文学のこと(仙台文学68号掲載)

 工藤幸一さんとの出遣いは今から二十年と少し前のことになる。大学を卒業後、製薬会社でMR(医薬情報担当者)をしていた私は、寝食以外の時間を殆んど仕事に充てていた。 しかし、三十六歳の秋に仕事が内勤に変わった。初めて経験する内勤職では時間を持て余し、退屈で仕方がない。毎晩自棄酒に溺れていたが、そんなとき駅前の書店で目にした「仙台文学」に強く興味を引かれた。
 本来、私は文学部志望であったが高度成長の入口に差し掛かっていた時代で、周囲がそれを認めてはくれない。仕方がなく、理系でもあまり硬くなさそうな薬学を選んだ。そして、十八歳のときに歴史とロマンに満ちた南国の町、長崎に赴いた。想像していたように、そこは明るくて温かく、かつ戦争の傷跡を残している町であった。江戸時代は天領であった影響か、人々は親切で楽天的である。町のいたるところにキリスト教の建物や殉教者のモニュメント、異教に対抗して建立されたおびただしい数の寺社仏閣。当時はあまり見かけることがなかった外国人も多くて、キヤンパスの近くで一人遊ぶキューピー人形のような女の子に思わず目を奪われた。また、少し離れたタバコ屋に別嬪がいると聞いてハイライトを買いにいく。色白な娘は片手だけで煙草を差し出し、釣銭をくれる。二、三度通ううちに彼女の隠された手、ケロイドで焼けただれた手を覗き見て、己の不謹慎さを思い知らされた。そんな複雑なまち、長崎で過ごした青春を小説に書きたいと思った私は、仙台文学の主宰者、工藤さんに手紙をしたためた。
 工藤さんに初めてお会いしたのは「一人のめぐり」の出版記念パーティーであったように記憶している。晴れやかな席の真ん中に工藤さんがいて、友人たちの祝辞、歯に衣着せぬ辛辣なスピーチにも終始微笑んでいた姿が目に焼き付いている。同人のメンバーも牛島氏、佐々木女史をはじめ、同世代の若手が多かったので、私は創作意欲をおおいに掻き立てられた。
 私が初めて仙台文学に発表した作品は「九郎」、クローン人間の話である。今でこそクローン人間を知らない人はいないが、当時は全くのSFと解釈されたようである。仕事の関係で大学病院に出入りしていた私は、科学雑誌の潮流がゲノムやバイオに急速に傾いていることを多くの医師たちから間いていた。魚類や爬虫類で行われていた遺伝子の組換えが哺乳類、そして人間に及ぶことはもはや時間の問題でしかなかった。その警鐘の意味を込めて「九郎」を執筆した。このタイトルはthe ninth cloning man“Cloh”の意で、九番目の「九」と「クローン」の掛詞であった。この作品は、まず工藤さんに原稿を送り、 即刻掲載の承諾を頂いた。その後、この作品で宮城県知事賞を射止めたが、私は賞にはとんと興味がなかったので授賞式には出席していない。今思えば、随分失礼なことをしたと思う。
 引き続いて仙台文学に「霧氷」、「精霊流し」、「哉助」を掲載し、同人の合評会では貴重な書評やアドバイスを頂いた。工藤さんの評はいつも肯定的で、痛烈な批評はほかの同人から多く寄せられた。特に印象に残っているのは、故加藤秀造さんの「哉助」評で、貧農の家に生まれた主人公の名前としては高級すぎる、似合わないというものであった。あの主人公のネーミングは、「サブ」とか「ロク」にすべきであったと思う。
 四十六歳の秋に転勤で仙台を離れた。大阪で主力製品の育成を手掛け、パンフレットや宣伝資料を作成したり、学会でサテライトシンポジウムを企画したりの毎日で、物を書く余裕は全くなかった。ところが、社内の覇権争いで私の上司に当る専務が失脚する。それに伴い、私の仕事もコアの業務から外されて、遣り甲斐の乏しいものに変わっていく。そうなると、とたんにまた物が書きたくなる。敗北感と失意のなかで自分を奮い立たせるように書いた作品が「母の墓」。その後、流刑のように異動させられ赴任した四国では定年後に…と思っていた長編「若い君に」を六回に分けて掲載した。この作品は「密やかな連夢」と改題し、ペンネーム香取 淳で西田書店から出版している。
 これらの文筆活動を通して、工藤さんは常に私を励まして下さった。締め切り間際に原稿を送る、同人誌が出来上がると掲載料を送る、その度に達者な直筆で返事を下さった。ところが、昨年の末に会費を送った析には返事がない。年が明けても全く音沙汰がない。一体どうしたのであろうか? と懸念していたときに訃報が届いた。突然であった。歳だから何時かは…と思ってはいたが、あまりに突然の報せであった。
 工藤さんは高齢にもかかわらず何時も輝いていた。身体はあまり丈夫ではなかったが、常に生命力に満ちていた。それが何故なのか、私も還暦を迎えてやっと分かるようになってきた。それは恐らく「書くこと」と「生きること」が同じ意味を持つことからきているように思われる。
 現在、私は製薬会社を辞めてMRや医療関係者の教育研修業に就いている。講義やテキストの原稿、E−ラーニングの脚本など、物を書く機会は非常に多い。しかし、それらのビジネス文章は幾ら書いても満足は得られない。むしろ、疲労感が溜まるばかりである。そんなとき、私は仕事を早く軌道に乗せて次の小説を出版したいと心に念じる。そうすると妙な力が湧いてきて、生きる意欲が生まれてくる。仕事に力が入ってくる。不思議なことだが、小説を書くことにはそんな力が確かに存在すると思う。
 恐らく工藤さんの年齢を超えた情熱や活力も、そのような創作に対する強靭な力に裏打ちされていたように思われる。さらに、工藤さんの作品から伝わってくるもの、それは幾ら年を取っても官能的な欲情、浅薄な羨望や嫉妬心などは消えないということ。今まであまり書かれなかった老いの世界を、ありのままに大胆に描いていることであろう。人生五十年とは遠い過去の話で、高齢者がどのような感覚や感性を持って生きていくか…、それは極めて重要なこれからの文学的課題である。
工藤さんと出遣い、そして多くの手紙や作品に触れてきた私には大いなる先達として、また師として学ぶことが一杯あった。そして、これからも祈に触れ工藤さんのことを思い出すに違いない。
 工藤幸一さんのご冥福を心からお祈りしたい。
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