香取 淳の本棚

 
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テロメアの報復


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2010年11月30日 新発売
  「テロメアの報復」は、1987年に同人雑誌「仙台文学」に発表した「九郎」の 続編に相当します。
今回は原作に筆を加えて後半部分を書き上げましたが、四半世紀経ったいま、極めてリアルな問題になってきたので、多くの人の 理解や共感が得られるのではないかと思っています。
また、脳科学とその応用も日進月歩で、脳波などを利用して麻痺した手足を動けるようにするロボットスーツや、全盲の人に額に当てた電極から イメージ画像を送り込んだりする技術には目を見張るものがあります。
恐らく、この小説で描いた後半の場面も近い将来、現実のものになるような予感がします。  

香取 淳へのメッセージはこちらまで


テロメアの報復(1〜17章)

      第一章

クロウは外来患者の診療を終えて診察机から離れた。消毒液と石鹸で手洗いをして産婦人科の診察室を出る。朝から二十五、六人の患者を診たが、その大半は結婚したものの子に恵まれない妻か、苦心して妊娠にこぎつけた女性たちであった。クロウはそれらの患者を振り返りながらエレベーターの脇にある階段を昇り、二階の医局に入った。殺風景な部屋には長方形のテーブルが据えてあり、その端に一人分の食膳が置かれている。それは、入院患者に出した昼食と同じもので、医師がカロリーや栄養バランス、味付けなどをチェックする。クロウはその味見役に当たっていたが、冷え切った料理に箸をつける気にはなれない。そこで、食膳に添えてある検食簿に、Good Dr. Kurohと書込み、カッターシャツに着替えた。
クロウは、父の史郎(しろう)が経営する大和(やまと)記念病院の玄関を出た。冷房が利いた病院の中とは違って、外はひどく蒸し暑い。彼は、JRの駅に隣接した商業ビルの地下街に降りて軽食を済ませた。食後にコーヒーを啜って店を出ると、仕事場の病院とは逆の方に足が向いた。クロウは、JRの改札口の脇にある交差点を渡り、左手に架かる石橋に差し掛かった。真夏の強烈な陽射しを浴びて、顔中に汗が滲んでくる。彼は石橋の真ん中で立ち止まり、ハンカチで汗を拭いながら欄干から橋下を覗いてみた。橋脚が高くて、掘割の底までは目眩(めまい)がするほど距離があった。その深い掘割の底に色鮮やかな緋鯉が一尾泳いでいる。目を凝らすと、その脇に数尾の黒い鯉が群れているのが見えた。
それらの鯉を追い散らすように平たい小船が現れて、水面に波紋を広げながら前方のビルの狭間(はざま)に入っていく。掘割の右岸は鉄道で、橋下に伸びるプラットホームにオレンジと黄色の電車が相前後して滑り込んできた。オレンジ色の電車が停まった軌道の下は切り立ったコンクリートの壁になっていて、その中腹に開いた穴から地下鉄の車両が飛び出してきた。腹に赤い帯があるシルバーの車両は、掘割に斜めに架けられた鉄橋を渡って、左手前の崖にある穴に吸い込まれていく。地下鉄の車両を呑み込んだ穴の上にはアスファルトの道が平たく伸びて、その上をさまざまな車が往来していた。
クロウは複雑に入り組んだ大都会の営みを、石橋の上からぼんやりと見下ろしていた。そうしていると目の前に広がる建造物や機械が、巨大な生物の腹の中のように思えてきた。その腹の中で蠢(うごめ)いている人間がひどく小さな存在に見えて、あたかも巨大生物に呑込まれた蟻か虫であるかのように感じられた。
しかし、目の前に広がる光景がいかに巨大で精巧なものであったとしても、それらはすべて人間が作り出した物や道具に過ぎない。そのような物や道具に、人間が呑み込まれ、使い回されていいわけがない…。
クロウは、主客が転倒した、錯覚にも似た思いをすぐにかき消して、焦点のぼけた眼を己の身の周囲に移した。そのクロウは、新しい命を育む産婦人科の、しかも不妊症専門の医師である。クロウや彼の仲間たちの手で取り上げられた幼い命がすくすくと育って、一人ひとりがその生を謳歌しながら次の世代にすぐれた文化や伝統を継承していく。いかに科学や技術が進歩を遂げたとしても、この世の中心は人間であり、主役は人間でなければならない。もしそうではなかったとしたら、クロウが真剣に取り組んでいる仕事には何の意味もなくなってしまうではないか…。
真夏の太陽で熱くなった欄干に手を掛けながら、クロウは心底からそのように思った。

病院に戻ったクロウは、二階の医局で汗にまみれたシャツを脱いで白衣に着替えた。エレベーターの脇にある階段を足早に降りて、外来の隣にある部屋のパソコンに向かう。キーボードを叩いて朝一番に診察した患者の電子カルテを開いた。そして、病状の経過を確かめながら、新たに加えられた臨床検査のデータなどをチェックしていった。
電子カルテのメンテナンスが終わりに近づいたとき、携帯が唸りだした。マナーモードに設定したそれは机の隅で青い光を放ちながら踊っている。
「クロウ先生。院長が、院長先生が大変です!」
切羽詰った女の声に、クロウは携帯を握り直した。
「父が? 一体、どうした!」
「ひどくお加減が悪くて。すぐに来てください!」
「すぐに、といっても何処ですか。そこは?」
「院長室です。早く来て!」
クロウは、携帯を白衣のポケットに入れて椅子から立ち上がる。そして、聴診器を鷲掴みにして部屋を飛び出した。待合室のベンチの間を突っ切って、階段を大股で駆け上がる。二階と三階が吹き抜けになった回廊を奥に進むとナースセンターに突き当たる。その前のU字型に曲がった廊下に四十絡みの男女と赤ちゃんを抱いた白髪の婦人が立っていた。彼女らは、数日前にクロウが男児を取り上げた産婦とその家族である。クロウは彼女らに軽く会釈をして脇をすり抜けようとした。しかし、小太りの夫がクロウの前に立ちはだかった。
「若先生、やっとお会いできました。退院する前に一言お礼が言い たくて、先程から待っていたんですよ」
真ん中に立っている妻は、二年ほど前に不妊外来に一人でやってきた。彼女は結婚しても子には恵まれず、専門クリニックを転々としてきたという。最初は院長の史郎が彼女を受け持ち、一通りの検査やホルモン療法を試みた。しかし、妊娠には至らず、配偶者間体外受精を試みることになった。いわゆる試験管ベビーといわれる方法である。
彼女の体外受精はクロウが担当することになり、夫にも何度か来院を促がしたことがある。それ以来、クロウとも顔見知りになった夫が、息を弾ませて話し掛けた。
「私達にはもう無理かと諦めていたんですよ。ここに来て本当に良 かった。ほら若先生、私の子供、私の息子です!」
 男は、赤ちゃんを抱いた白髪の婦人の後肩に手を添えながら前に 促がし、妻が手を伸ばしてベビードレスの衿元を広げる。
「おーいい子だ、本当におめでとう!」
 クロウは、愛らしい赤ちゃんに目を細めて言った。
「若先生には何とお礼を申し上げたらいいのか…。もう、言葉もありません。これは、ほんの気持ですけど…」
そう言いながら、男はポケットから祝儀袋を取り出した。
「そんな心配はしないでください、お気持だけで十分です」
「堅いことは言わずに先生、どうか納めてください。これは私たちの気持ですから」
 深々と下げられた夫の頭は天辺が円く禿げあがり、片方から掻き揚げた髪が頭皮にへばり付いている。
「困ったなあ。そういうものは一切受け取れません」 
クロウがいくら断っても、男は引き下がる気配を見せない。クロウが困って脇に目をやると、半円筒形のガラス窓越しに看護師長のサチが笑っている。
「あ、サチさん。ちょっとこっちに来て!」
「何でございましょう、若先生」
 五十を過ぎたサチが、太めの腰を左右に揺らせて廊下に出てきた。
「急用があるので! 後を…」
 クロウは大声で言って、産婦と男の間を強引にすり抜けた。そして、ヘアピン状に曲がった廊下を小走りに突き進んだ。ナースステーションの隣は分娩室で、その先に手術室と医局が並び、突き当たりに院長室がある。
クロウは息を切らせながら、ドアが開け放たれたままの院長室に飛び込んだ。入口の近くに大きな応接セットがあって、その奥に重厚な机がある。その机の前で史郎が四つん這いになっていた。傍らに秘書係の女が屈みこんでいる。
「お父さん、どうしたんですか!」
 クロウが声を掛けると、史郎は呻き声を上げた。
「胸が、胸が痛い!」
クロウは、史郎の脇の下に腕を廻して身体を起こそうとした。しかし、太っている史郎は重くて思うようにはいかない。
「君、何をボンヤリ突っ立っている! そっちに廻って」
 クロウと秘書係の二人は苦心して史郎を抱き起こしてソファーに仰向けに寝かせた。
クロウは、史郎の胸元を開けて呼吸を楽にさせながら、聴診器を当てた。脈は早いが乱れてはいない。ゼーゼーと苦しげな息づかいと、バリバリというラッセル音がひどい。皺が刻まれた額に手を当ててみると、かなり熱がありそうである。クロウは、心配顔で覗き込む秘書係に看護師長のサチを呼ぶように言った。白いブラウス姿の彼女は、机の受話器を取り上げて短縮ボタンを強く押す。
間もなくサチが息を切らせて飛び込んできた。
「院長先生、どうなさいました!」
「ひどい熱だ。それに胸痛を訴えているが、心臓ではなさそうだな・・・。近頃、変わったことは?」
「そういえば四、五日前から夏風邪をひいたとおっしゃられて、嫌 な咳を」
「ラ音もひどいし、肺炎かな?」
「いずれにしてもクロウ先生、此処ではどうにもなりませんわ。病 室にお移ししましょう」
サチは素早く受話器を取り上げ、ナースセンターに繋いだ。そして、ナースにテキパキと指示を送っている。彼女のキャリアはこの病院がオープンしたときからで、院内のことはすべて掌握していた。
「三〇一号室でよろしいですわね。産科病棟ですけど、個室ですか ら」
受話器を置いたサチが、史郎の診察を続けるクロウに言った。
「ああ、ところで内科のドクターは?」
クロウは血圧を測りながら、サチに訊ねる。この病院では週に二回、大学から内科医がやってきて外来を中心に診療をしていた。その内科外来に電話をしてサチが答えた。
「先程、大学に戻ったようです」
「弱ったな…」
廊下にドタバタと足音がして、ストレッチャーを押したナースが二人、飛び込んできた。彼女たちにサチも加わって、史郎を手際よくそれに乗せる。ナースたちは史郎が横たわったストレッチャーを、回廊の向かい側にあるエレベーターへと押していった。
「院長の診察ですけど、クロウ先生がなさいます?」
 急に静まりかえった部屋で、サチが尋ねた。
「ちょっと、待って」
彼は、ポケットから携帯を取り出し、友人の北村の番号を探した。
(以下、省略)
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